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ヴォズロジュジョーンヌイ (駆逐艦) : ウィキペディア日本語版
桐 (松型駆逐艦)[きり]



(きり)は、大日本帝国海軍駆逐艦松型(丁型)の6番艦である。日本海軍の艦名としては2代目(初代は二等駆逐艦「樺型」10番艦)。丁型一等駆逐艦第5486号艦として横須賀海軍工廠で建造された。
== 艦歴 ==
就役後、訓練部隊の第十一水雷戦隊高間完少将海軍兵学校41期)に編入。残工事を終えて〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.24〕瀬戸内海に回航され、出撃準備を整えた。10月10日付で第三十一戦隊江戸兵太郎少将・海兵40期)第四十三駆逐隊に編入される〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.13〕。その一週間後の10月17日、アメリカ軍がフィリピン、レイテ湾のに上陸し、日本軍捷一号作戦を発動した。この作戦は小沢治三郎中将(海兵37期)が率いる機動部隊が囮となって第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)をひきつけ、その隙に栗田健男中将(海兵38期)率いる第二艦隊主力がレイテ湾に突入しアメリカ軍の上陸部隊を撃破するというものであった。10月20日夕刻、機動部隊は豊後水道を出撃。10月22日に軽巡洋艦大淀」から重油の洋上補給を行うも、予定の100トンに対して30トンしか補給できなかった〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.19,20〕。機動部隊は10月23日に兵力を二分して2つの輪形陣を形成するが〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.24〕、次第に燃料事情が艦の行動を圧迫する。翌10月24日、上空警戒にあたっていた空母瑞鶴」の零戦1機が着艦に失敗して海上に墜落し、「」とともに捜索を行う。捜索後、「杉」とともに機動部隊に向かおうとしたが、誤ってアメリカ艦隊と思しき艦隊へと合流してしまう〔『艦長たちの太平洋戦争<続篇>』, pp.245〕。この時は艦影と航空機を見て反転し、「燃料の余裕がない」との機関長の進言もあって「杉」とともに高雄に向かった〔雨倉, 96ページ〕。機動部隊からは、後追いで「奄美大島ニ回航補給ノ上速ニ合同スベシ」と命令されたが〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036600, pp.39〕、ついに機動部隊との合流はならなかった。このため、10月25日のエンガノ岬沖海戦に参加する事ができなかった。高雄経由で奄美大島に向かい、補給部隊のタンカー「たかね丸」(日本海運、10,021トン)から200トンの重油を補給してもらった〔『機動部隊本隊 捷一号作戦戦闘詳報』C08030036700, pp.12〕。「杉」とともに10月29日に奄美大島を出港し、翌10月30日にに帰投した〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.34〕。
11月9日、南方に進出する戦艦伊勢」「日向」を護衛して門司を出撃する〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.53〕。途中の11月11日に馬公入港後、強風により港内で座礁するも南下を続ける。「伊勢」「日向」とは南沙諸島長島で別れ〔野村, pp.10〕、第三十一戦隊旗艦の軽巡洋艦「五十鈴」を護衛してマニラに向かい、11月18日に到着の予定だったが〔『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127700, pp.58 、野村, pp.10〕、を出港して日本本土に回航して整備を行う事となった〔『第十七駆逐隊戦時日誌』pp.20〕第二艦隊と、11月17日に「」とともに合流〔『第十七駆逐隊戦時日誌』pp.6〕。11月20日まで護衛に協力した後〔『第十七駆逐隊戦時日誌』pp.7〕、馬公に帰投した〔木俣『日本戦艦戦史』592ページ〕。その後、改めてマニラに進出してレイテ島行きの多号作戦に参加する事となる。
12月9日14時、第九次多号作戦で駆逐艦「卯月」「夕月」、駆潜艇2隻とともに輸送船3隻と、第140号輸送艦第159号輸送艦およびセブ行きの第9号輸送艦を護衛してマニラを出撃〔『第三十駆逐隊戦時日誌』pp.34〕。翌10日には早くも偵察機に発見され、12月11日朝からB-24P-38F4U の波状攻撃を受ける〔『第三十駆逐隊戦時日誌』pp.35〕。この作戦時、「桐」は25mm機銃を増強しており、艦長や砲術長は7から10機を撃墜したと述べている〔地獄の海、113-114ページ〕。また空襲では輸送船2隻が沈み、「桐」は陸兵約600名を収容した〔地獄の海、114ページ〕。18時55分、輸送部隊は二分され、「夕月」とともに第140号輸送艦および第159号輸送艦を護衛してオルモック湾に突入。しかし、この頃すでにオルモックにはアメリカ軍第77師団がいて日本軍の姿はなく、第159号輸送艦は陸上からの砲撃を受けて炎上した。さらに、南方からは第77師団に対する補給部隊が駆逐艦5隻に守られてオルモックに向かいつつあった。12月12日0時15分、発見したアメリカ駆逐艦コグラン (''USS Coghlan, DD-606'') に対して照射砲撃を開始〔『第三十駆逐隊戦時日誌』pp.36 、木俣, 575ページ、雨倉, 100ページ〕。さらに肉薄して雷撃を行ったものの命中しなかった〔雨倉, 100ページ〕。コグランは一旦退却して他の駆逐艦を連れてオルモック湾に引き返してきた〔木俣, 576ページ〕。盛んに砲撃され、命中弾はなかったものの「夕月」とともに湾外に脱出した。「桐」は「夕月」と別れて、パロンポンで収容していた陸兵降ろした〔地獄の海、123ページ〕。それから、別行動をとっていた「空知丸」といったん合流したがすぐに別れて「夕月」と合流した〔地獄の海、124ページ〕。この間「夕月」は再びオルモック湾に戻り第140号輸送艦を引き連れて脱出していた。3隻はマニラへ向けて北上したが〔地獄の海、132ページ〕、16時22分から再び46機のF4U による空襲を受け、「桐」は至近弾で右舷機械が損傷して一軸航行となり〔『第三十駆逐隊戦時日誌』pp.58〕、戦死者12名を出した。「夕月」も缶室に爆弾2発が命中して航行不能となる。このため、第140号輸送艦とともに「夕月」の乗員および第三十駆逐隊司令沢村成二大佐などを収容の後、20時27分にの地点で「夕月」を砲撃処分した〔『第三十駆逐隊戦時日誌』pp.37 、木俣, 577ページ、雨倉, 100ページ〕。12月13日19時、第140号輸送艦とともにマニラに帰投〔『多号作戦第九次輸送部隊戦闘詳報』pp.15〕。
この後、応急修理を行って日本本土へ帰り、呉海軍工廠1945年(昭和20年)3月まで本格的修理を行った〔『第三十一戦隊戦時日誌』C08030074800, pp.8,9 、C08030074800, pp.6,7,8,9〕。その後は瀬戸内海で回天との訓練に従事し、7月に入ると柳井で待機〔木俣, 644ページ〕。そのまま8月15日の終戦を迎えた。10月5日に除籍され、12月1日に特別輸送艦となり復員輸送に従事する。
1947年(昭和22年)7月29日、ソビエト連邦に賠償艦としてナホトカで引き渡される。艦名は「復活した」という意味のヴォズロジュジョーンヌイロシア語:ヴァズラジュヂョーンヌィイ)に改称される。8月中旬にウラジオストクへ回航され、1949年3月まで係留ののち、3月中旬には現役を退いて、武装解除上で標的艦となる。7月17日に艦名を TsL-25(ツェエール・ドヴァーッツァチ・ピャーチ 。「第25号標的艦」といった意味)に改称。1953年には応急修理のため、ウラジオストクの第90船舶修理工場(SRZ-90)に入る。1957年3月、シコトヴォにて工作艦()として使用される。同年10月3日には PM-65(ペエーム・シヂスャート・ピャーチ 。「第65号工作艦」といった意味)に改称される。その後、1969年12月20日に退役し、解体のため資金資産局へ引き渡される。''ヴァズラジュヂョーンヌィイ)に改称される。8月中旬にウラジオストクへ回航され、1949年3月まで係留ののち、3月中旬には現役を退いて、武装解除上で標的艦となる。7月17日に艦名を TsL-25ツェエール・ドヴァーッツァチ・ピャーチ 。「第25号標的艦」といった意味)に改称。1953年には応急修理のため、ウラジオストクの第90船舶修理工場(SRZ-90)に入る。1957年3月、シコトヴォにて工作艦()として使用される。同年10月3日には PM-65(ペエーム・シヂスャート・ピャーチ 。「第65号工作艦」といった意味)に改称される。その後、1969年12月20日に退役し、解体のため資金資産局へ引き渡される。''ツェエール・ドヴァーッツァチ・ピャーチ 。「第25号標的艦」といった意味)に改称。1953年には応急修理のため、ウラジオストクの第90船舶修理工場(SRZ-90)に入る。1957年3月、シコトヴォにて工作艦()として使用される。同年10月3日には PM-65ペエーム・シヂスャート・ピャーチ 。「第65号工作艦」といった意味)に改称される。その後、1969年12月20日に退役し、解体のため資金資産局へ引き渡される。''ペエーム・シヂスャート・ピャーチ 。「第65号工作艦」といった意味)に改称される。その後、1969年12月20日に退役し、解体のため資金資産局へ引き渡される。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「桐 (松型駆逐艦)」の詳細全文を読む



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